7.福地姓に関わる資料

●福地姓の有名な人物としては,福地源一郎(桜痴)(1841−1906)がおり, この人は長崎の出身である。但し,曽祖父の代までは京都にいたらしい。
参考文献は多々あるが,例えば


●「葉隠」に福地姓の武士が登場する。
「葉隠」とは,「鍋嶋藩士であった山本常朝の談話を七年にわたって聞書した田代陣基が, この談話を基に編集した武家倫理についての書」である。
「武士道といふは,死ぬ事と見付けたり。」は有名。

聞書 第四 五十に,福地吉左衛門が登場する。 「勝茂公兼々御意なされ候には,奉公人は四通りあるものなり。急だらり,だらり急,急々, だらりだらりなり。急々は申し付け候時もよく請け合ひ,事をよく調ふる者にて候。 これは上々にはあり兼ぬるものなり。福地吉左衛門などは急々に似たる者なり。 だらり急は,申し付け候時は不辧にて,事を調へ候事は手早くよく埒明かすものなり。 中野數馬どもにてあるべし。急だらりは申し付け候時は成程埒明き候が, 事を調ふる事は手間入りて延引する者なり。これは多きものなり。 その外は,皆だらりだらりなりと仰せられ候由。」(和辻哲郎・古川哲史校訂『葉隠(上)』より)

「勝茂公がかねがね話されていたことだが,奉公人には四種類ある。 「急だらり」「だらり急」「急々」「だらりだらり」である。「急々」というのは, 用事をいいつけたとき,よく請けあって,事をすみやかに処理する者のことで, これは最良だが,そんなにいるものではない。福地吉左衛門などは,「急々」にちかい者だ。 「だらり急」というのは,申しつけたときはよく理解できていないようでも,事を処理するのは 手っとり早く,手ぎわのよい者のことである。中野数馬などそのひとりだ。「急だらり」は, 申しつけたときはよい返事をするが,事を処理する段になると,なかなか手間がかかり, 仕事もながびくものだ。これは多い。 その他はみな,「だらりだらり」であるとおっしゃられたそうだ。」(三島由紀夫著『葉隠入門』より)

聞書 第六 一六六には,一行だけだが, 「福地孫之允の介錯を,小城の蒲池某がしそんじて浪人したという。」(松永義弘訳 『葉隠(中)』より) の記載がある。
聞書 第七 三二には,「千住善右衛門,討ち果たしのこと」の記載があり, 福地市郎兵衛が検分役として登場する。(松永義弘訳 『葉隠(中)』)
聞書 第八 四五には,「福地孫之允の介錯人のこと。」の記載があり, 福地孫之允が中野休助とけんかをし,切腹した経緯が記されている。(松永義弘訳 『葉隠(下)』)
聞書 第八 五七には,「福地六郎右衛門が殺害人を助けたこと。」の記載があり, 福地六郎右衛門が,多久長門守の家来を切腹の危機から救った経緯が記されている。 なお,福地六郎右衛門は家老職の横岳の鍋島主水の組のものであったことがわかる。(松永義弘訳 『葉隠(下)』)
参考文献は,


『熊本大学附属図書館』に, 「細川家旧記・古文書目録」
があり,その中の細分類211「系譜・家門・格式(相続・養子を含む)」の250に 福地平右衛門 の名前が見える。

慶安2(1649)年頃の記録である。


●三重県伊賀市柘植町に福地城跡があり, 芭蕉公園になっている。
松尾芭蕉(1643−1694年)は,遡れば同族であったらしい。

等に詳しい解説がある。


『くらのすけ屋敷』 「戦国武将官職総覧(暫定版)」−[ふ〜へ]
文禄1(1592)年,豊臣家家臣 福智三河守政直 の名前が見える。


『播磨屋』分家の, 『戦国大名探求』 「奥州葛西氏」に関する記述があり,
天正18(1590)年,豊臣方の 「奥州仕置」 の中に,奥州葛西氏の家老として,福地下総守の名前が見える。


●S-Shibata氏の[千葉一族]− [奥州千葉氏]− [奥州千葉氏の戦い]
「●天正18(1590)年 ―秀吉の奥州仕置軍に対抗した葛西氏(大崎・葛西一揆)― 」の記述に, 葛西左京大夫晴信の家老 福地下総守の名前が見える。


[Household Industries 歴史館 ] −[天下統一期年譜 ver.8.0]− [天下統一期年譜 1588年]に,福智長通 の名前が3ヶ所見え,
[天下統一期年譜 1587年]に,福智長通 の名前が20ヶ所,福智式部大輔が1ヶ所見える。
[天下統一期年譜 1570年]には, 『3月18日 山科言継、清水式部丞(武田家臣)の訪問を受ける。 西岡寶菩提院の件で福地の闕所を獲得した御礼であった。 この地は「勅願所」であったので、「禁裏」は織田信長(「織田弾正忠」)に その実行を命令する「御使」として山科言継を派遣することとする。〔『言継卿記』四〕』とある。


『くらのすけ屋敷』 「無名武将列伝」 「佐野氏」
佐野家の「御客家」として,福地丹波守綱久(丹波国福知山城主?), その子の福地出羽守寧久,孫の福地帯刀智之の名が見える。
福地出羽守寧久は,天正十五(1587)年十月二十八日付 佐野氏忠の書状の宛名に現れるらしい。


●伊賀の柘植の地の豪族福地氏は,本能寺の変(天正十(1582)年六月二日)以後,この地を去った。 その経緯は,以下のページに詳しい。

すなわち,福地伊予守宗隆(通称六郎兵衛)一族は,伊賀の地にはいられなくなり, 徳川領駿河へ移住したものと思われる。


●大村勉氏の 『群馬の城郭』によると,現在の栃木県佐野市船津川町に, 椿田城祉がある。
このページには,「城郭の歴史」として以下の記述がある。
「城主の福地氏は丹波国の出身で、福地中久の時に唐沢城主佐野盛綱に仕え、 永禄三年に唐沢城の支城として川越,忍,館林の押さえとして築かれたという。」
永禄三年は1560年である。


●S-Shibata氏の[千葉一族]− [肥前千葉氏]− [16代千葉胤勝]の「★肥前関係図16★―亨禄3(1530)年8月ー」の記述に, 龍造寺氏の家老 福地家盈いえみつの名前が見える。


●中西徹氏の 『お城の旅日記』−『京都』−『丹波の城』−『犬飼城,』によれば 「丹波 犬飼城」 が「京都府亀岡市曽我部町犬飼」にあったとされており,
「「丹波志」・「福地茂夫家文書」によれば、福地城は応仁元年に福地氏によって築かれ、 天正10年に廃城となった以外、犬飼城の歴史は伝えられていない。」
応仁元年は1467年,天正10年は1582年である。


●富士山本宮浅間大社の大宮司家は富士氏であるが,その系図の中に,福地義邦の名前が見える。

年代は,南朝大宮司 富士義尊と,仕徳川氏 富士信重との位置関係から, 1300〜1400年代頃と推定できそうである。


『柘植姓の研究』に掲載されている, 柘植宗澄氏著 「柘植姓の研究」によると,
桓武平氏の平宗清という人が,源頼朝との縁により壇ノ浦の戦い後も生き残り, 伊賀の地において柘植氏を名乗ったが,(1190年頃?) その長男は日置氏,次男は福地氏,三男は北村氏を名乗ったらしい。
「戦国大名探求」 「戦国武将出自事典 Part_3」「柘植氏」 には,系図とともに平宗清の次男として,福地三郎清春の名前が見える。


●福知神社


●続日本紀の巻第23,天平宝字5年(761)3月15日の記録に,
「百済人の..(中略)..伊志麻呂には福地造,..(中略)..の姓を与えた。」
とある。
『続日本紀 全現代語訳(中)』,宇治谷 孟,講談社学術文庫,1992年発行(1997年第8刷),p265.


●久保田捷彦氏の[歴史の足跡]− [安国寺・利生塔を訪ねて]− [豊前]には,興国寺(曹洞宗)の紹介があり, 『寺の縁起によれば、「往古は福智寺と号し、天武天皇の白鳳5年に福智権現を祭祀する 天台の律院として、釈教順によって創建された」と伝えられている。』とある。
白鳳5年は,676年である。


●宮崎県には,百済王伝説があり,今でも神事が行われている。その中に「福智王」が登場する。


●奈良県に古墳時代からの遺跡として, 「福地城遺跡(古墳時代の住居跡と中世の城跡)」があったらしい。 西暦600年代前半まで遡ることが出来る。


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